ポール・マッカートニーの急病による公演中止によって、「超がっかり」した人は2日間で10万人を超えた。

2014-05-17 16.25.07

とくに2日目などは「きょうは大丈夫っしょ」と意気込んで会場に駆けつけたものの、開演1時間前になって「きょうも中止」の発表。その現実に打ちのめされた人たちのやるせない気持ちとやり場のない怒り、そして時間的、金銭的ダメージは想像に難くない。

しかし、わたしの知る限り、「想定外の体験」をした人も多かった。公演は中止になってしまい残念だったけれど、「おかげで同行者とゆっくり会話ができた」「会場近くにこんな美味しい店をみつけた」といった類いのものだ。こうして、だれもが予想しなかった2日連続の公演中止は、10万人もの人々に「偶有性のプレゼント」をもたらした。

 

偶有性の大切さを教えてくれたのは、僧侶で作家の玄侑宗久先生だった。

もう8年くらい前のことだろうか。師走も中盤にさしかったころ、「アントレ」の編集長インタビューという名目で、先生が住職を務める福島県三春町にあるお寺を訪ねた。

しかし、意に反して先生はなかなか出てこられない。担当編集者であるわたしは焦った。忙しさのあまり、著名人インタビューの鉄則である「前日の訪問確認」を怠っていたのを思い出したからだ。

そりゃもう、致命的。同行した編集長とライター、カメラマンに対しては冷静を装いつつ「おかしいですねー」なんて軽口を叩きながら、底冷えのする広い庫裡の玄関で、「ごめんくださーい」と腹の底から叫び続けた。叫ぶというよりは、もう「祈り」に近かったかな。

脇汗でびっしょりになった数分後(ほんとうは数十秒だったのかもしれないが・・・)、先生はひょっこり作務衣姿で現れた。「あれ、約束してましたっけ?」という言葉を聞いた瞬間、その安堵からわたしは膝から崩れ落ちそうになった。多忙を極める先生が、昼間から寺にいるのは奇跡的なこと。わたしの編集者人生は、先生によって救われた。

たぶん、ひとつめの質問だったと思う。先生は開口一番、こんな主旨のことを仰った。

「きょうはきれいな満月だとするでしょ。

それを理由に酒を飲もうと誘って何が悪いんですか」

そして、こう付け加えられた。

人が死ぬのは、コントロールできないから」

もう、がつーんと来たよ。例えるなら、釣り鐘の中に入って「ゴーン」と撞かれたかんじ。僧侶ならではの一撃。それは常々わたしが「こうありたい」と思っていたことを、一瞬で表現してくれたから。先生は嫌かもしれないけれど、もう「一生ついて行きたい」とさえ思った。出家するのも悪くないなとか・・・。

以来、わたしは出来るかぎり目の前の「瞬間」をたいせつにして生きてきた(つもり)。必要以上に計画しすぎないこともこころがけた。朝令暮改はあたりまえ。経営者としては失格なのかもしれないけれど、それで得たものも多かった。とくに「今晩何しようかな」と思って出掛けたセミナーほど、よい出逢いをもたらしてくれた(と思う)。

 

話は先生のインタビューが行われる3週間ほど前にさかのぼる。

冷たい雨が降る日曜日の午後に行われたフットサルの試合中、わたしは左手人差し指を骨折してしまった。足を滑らせ転んだ瞬間、地面に手をついたわたしの上に接触した相手の全体重がのしかかってきたのだ。第二関節は外側に90度折れ曲がり、皮膚を突き破って飛び出てきた骨を見た瞬間、「ああ、俺はなんて運が悪いんだ!」と天を呪った。救急車に乗せられ、緊急手術を終え帰宅したわたしを迎えた妻は、自分の「夫選び」がまちがったのを悟ったのだろうか。終始無言を貫いた。

そんなこともあり、先生にお会いした時、わたしの左手人差し指はギブスで肥大化していた。それをご覧になった先生は、間髪入れずこう仰ったのだ。

「いやあ、じつに風流ですなあ」

いま、冷静に当時のことを振り返ってみると、先生が伝えたかったのは、「計画性の罠」と「意味づけの大切さ」だったのだと思う。詳しくはこちらのインタビューを読んでもらうとして、みなさんは事前に計画したことを「こなす」だけの生活になっていないだろうか。そして、目の前の出来事に「翻弄され」すぎてはいないだろうか。もちろん、自戒を込めて・・・。

 

最後に。

もしもあの時、先生が出て来られなかったら、と考えてみる。フリーランスになって3年目くらいだったわたしは、「クビ!」を宣告される前に、その責任を取って辞めていただろう(半分はかっこつけ)。その先に、どんな人生が待っていたのだろうかを想像しながら、今宵は眠りにつこうと思う。それこそが、偶有性の醍醐味なのだから。