最寄り駅の改札へ続く地下階段を降りると、週に何度か全盲と思われる白杖を持った中年の男性に出会う。そこで彼は必ずといっていいほど自動販売機でジュースを買い求め、立ち止まったままゆっくりと時間をかけて飲みほす。その後トイレに向かい用を足し、改札へと向かうのだ。
私は毎日彼を観察しているわけではないけれど、自販機の前やトイレでよく会うことから、すこし前から彼のことが気になっていた。どこに住んでいるんだろう? どんな仕事をしているんだろう?
私たちの朝は常に忙しい。目の前だけを向いて職場や学校に急ぎたどり着くことを目的とし、きょうの予定を反芻することだけで精一杯だけれど、彼はいつだってマイペースだ。時間に追われている感じがまったくしない。いつしか親近感さえ抱くようになっていた。
インド北部のリシケシという街で、ガンジス川を眺めながら『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗/光文社新書)を一気に読んだ。
読後の感想をひと言で表すならば、打ちのめされた。
それは、この一行を読んだ瞬間に訪れた。
<視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。
(中略)
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」がちがってくるのです。
(中略)
意味に関して、見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません。見えないからこその意味の生まれ方があるし、ときには見えないという不自由さを逆手にとるような痛快な意味に出会うこともあります。>
本書が扱うのは、目の見えない人(以下、見えない人)に対して福祉政策が目的とする情報ベースではなく、「意味ベース」としてのアプローチだ。そのせいか、福祉特有の「健常者が障害者にしてあげる」といったような偽善的なものはまったくなく、著者のまなざしはつねにやわからでまろやかで、見えない人との「距離」がとてつもなく近く感じる。
たとえば、視点がないから対象物と自由に向き合えるという話がある。とかく健常者は「正面」や「裏面」など入り口や出口を把握したうえで物事を考えてしまうが、彼らにとってそんなことは関係ない。これが見えない人に与えられた特権のひとつだ。
ほかにも、陶芸に挑戦した見えない人がみずからつくった壷の中に装飾を施した例が出てくるが、「新しい価値はこうして生まれるのか!」と思わず膝を叩かずにはいられなかった。見えない人の力を借りることで、私たちはときに本質的な解を導くことが可能になる。
<情報量という点では見えない人は限られているわけですが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できることをメリットと考えることもできます。
(中略)
まずは「当たり前」を溶かすことこそ、スリリングな「変身」の第一歩となるからです。>
圧巻は、見えない人と行く美術館ツアーの話だ。これを本書では「ソーシャル・ビュー」と呼んでいるが、情報を得ることが美術鑑賞の目的ではないことを指している。つまり、美術作品と向き合った人たちそれぞれが、その作品がどんな作品でどんな解釈に至るのかまでのプロセスを共有することを目的としているのだ。
現代美術の分野で博士号を持つ著書は、こう断言する。
<芸術作品とは本質的に、無限の顔を持った可能性の塊です。>
このソーシャル・ビュー最大の特徴。それは「見えない人」がナビゲーターを務めるという点にある。見える人から言葉を引き出し、その場を作り出しているのは見えない人だからという理由だ。これにはもう天地がひっくり変えるような驚きを感じてしまった。「見えない人には健常者が教えてあげるもの」という価値観がひっくり返ってしまったのだから。
そして、同時にこう思った。なんて自分は視野の狭い人間なんだろう、と。それに気づかせてくれたことが本書最大の収穫かもしれない。
<健常者が見えない人の価値観を一方的に決めつけるのが一番よくないことです。言葉による美術鑑賞の実践がそうであったように、「見えないこと」が触媒となるような、そういうアイディアに満ちた社会を目指す必要があるのではなないでしょうか。>
最後に、冒頭の白杖の男性の話に戻ろう。彼に抱いた羨望に近い感情の正体は、健常者が見えることによって得た情報の多さとは無縁の世界に生きることへの憧れにあったようだ。それはつまり、見えすぎるために必要以上の情報に埋もれている私は不自由な存在で、ほんとうに自由なのは見えない彼なのかもしれないと・・・。
こんど駅で彼に出会ったら勇気を出してこう言ってみよう。
「そのジュース、きょうも美味しそうですね」と。